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東京から広島へ。1日20-25キロの行程を歩いているWALKの「巡礼日誌」です。
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多米トンネル→御津町広幡神社まで  
 
ウォークが携えているひろしまの火。この灯は犠牲の灯であり、多くの苦しみを背負っている灯だ。それを漫然とただ運んでいるだけでは、平和や愛の灯として、広島入りができるわけがない。交流会でも、真剣に地元の問題に取り組んでおられる多くの方々に出会うにつけ、はたしてそれに見合うだけのものがぼくたちにあるのだろうかと振り返ると、赤面を禁じ得ない思いがした。

聖フランシスコの「私たちを平和の器として下さい」という祈りの意味を、もう一度心に深く沈めることになったのは、じつは具体的にはひとつの事件がきっかけだった。今日のメーリングリストでも流れたように、メンバーの中心的存在のひとりとして活躍していた、あきお君のスウェットロッジでのやけどのアクシデントである。

疲れやセッティングの問題など、様々な原因がからんで起きた事故だったが、ぼくはこれが、ぼくたちウォーカーの祈りの浅さに対する警鐘だと思っている。ぼくたちは広島の灯という、地球始まって以来の悲惨をもたらしたものを、平和の灯として新たに21世紀に届けるために歩いている。しかしその重い灯を、神輿を担ぐように支えるのは、祈りの力をおいて他にない。祈りがバラバラだったり弱過ぎたりすれば、再びそれは怒りの灯となり頭上に落ちてくる。

ぼくたちは自分達のやっていることを、あまりにも軽く考え過ぎてはいなかっただろうか。平和の容れものとしての自分を作っていかなければ、灯は再び暴れだす。

ぼく自身も分灯をしていただき、カイロに入れて旅をしていたのだったが、今回帰宅したおり、どういうわけかいつも着火していた灯がなかなかつかず、とうとう予備のカイロまで灯が絶えてしまった。これは久しぶりに帰宅して気もそぞろに灯を扱う慎重さを欠いていたことが第一の原因だが、ぼく自身がこの灯を携えるに足る祈りをもっていなかった証拠だと思っている。せっかく分灯していただいたのに、まことに申し訳ない。ウォークに戻ってからは、グループのカイロで一日一日大切に運ばせていただこうと思う。

このことからも、不用意に分灯を受けるべきではないし、灯をいったん持ったからには、よほどの覚悟がないとそれを平和のために運ぶことはできないことを思い知った。あきお君の犠牲に応えるためには、この一歩一歩を自覚して、新たに歩みだすしかないだろう。ぼくたちは、初めから「用意された」平和の灯を運んでいるわけではないのだ。一歩一歩を平和の花咲くように歩まねば、それは平和の灯となってはいかない。グループの中に二週間を過ぎて、いろいろな疲れや不満が出てきたことは確かだが、同じカマの飯を食べて24時間をともに暮らす仲間として、日常のこまごまとしたすれ違いや感情のギャップなどにまで平和の祈りを自覚して過ごすことが、何より要請されている。

これまで何回もミーティングを開き、問題解決をはかってきたりしたものの、ひとりひとりが「一(いち)ウォーカー」であることを自覚する以外に、真の連帯感など生まれようがないだろう。こうしたい、ああすればいいだろう、というエゴの思いはどこまでいってもコンセンサスを生まないものだ。

それぞれが「発願」してこれに加わってきたのだから、自分のことは自分で引き受け、自ら行動していくこと、そうすれば自分が本来持っているいのちの力が開花し、自ずから事はいい方向へと向いていく。それが他の人をも引き付けて、大きな流れになっていく。原因を自分の外に求めていては、いつまでたってもこのいのちの力は育たない。話し合いとはまず、自分の内側で自省という形で始めるものだろう。

帰りが同方向の飯野さんと、二週間かけて歩いてきた道を高速に乗ってたった2時間で引き返しながら話したことは、「ウォークは生活力がつくね」ということだった。ここで鍛えられれば大抵どんなことでも乗り越えていけるだろう、そういった手応えがこれまでの中でも確かにあった。それはグループの中にも、あきお君の事を境にして、確かに変化が兆してきたことが感じ取られたからだ。だらだらと出発が送れがちだった朝も、これより先、7時には歩き始めるように変わっていった。確実にウォークは広島へと向かっている。(島田啓介)



7時に石巻スタート。先発隊6人。後はホテルから直接桜ヶ丘高校を訪問する。この高校は、昨日交流会に見えた元校長先生の母校であるが、福岡県星野村からかなり通い詰めた上で、分灯を受けたという苦労話を聞いた。校門のところでその火が塔の上にあかあかと灯っていた。学生の代表と先生が迎えてくださり、会議室で、授業前で短時間ながら、火を携える者どうしの思いを交わすことができた。



ウォーク本隊はトンネルを抜けて愛知県入りした後、豊川沿いに歩き、豊橋公園で休憩。秋晴れで空にはいわし雲が広がり、最高に気持ちのいい一日である。ここで急に電話が入り、急遽トムほか四名で豊橋市役所に行くことになった。何も準備がなく、相手も良くわかっていなかった様子で、ほんの15分ばかり立ち話をした程度に終わり、不本意な交流に終わった。原因をきちんと究明し、こういったことが二度とないようにしなければならない。



昼食は水神社前の公園にて。奈良先生から寄附された食器類を使い始める。一人一人が責任をもって管理するという意味で、食器は各自名前を書いて洗うところまでやったらどうかという提案がされた。ここで、島田、飯野は一時帰宅のため、ウォークを離れ、神奈川へと向かう。財政難の2人にウォークの仲間からカンパが集まるなど、だんだんと皆が家族になってきた感じがする。確かにスェットの事故以来、ウォークが引き締まってグループの雰囲気が変わってきた。午後は7人で歩く。すばらしい晴天。御津町の広幡神社にて、市役所から帰った人たちと合流。ここでサーファーのカカムが合流、主に運転などのサポートで活躍するようになる。(島田啓介)
 
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